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マンゴーキャンディの平等 〜平等を訴える以上の誇らしさ〜

 動画はわずか2分のコメディドラマの一コマ。字幕は付いていないですが、まずは娘役の女の子の演技力にご注目ください。内容把握のため、まのじさんに大変秀逸な動画概要を書いていただきました。この動画は、多くの親が子供に対してよく使う「よそはよそ、うちはうち」というセリフよりも、はるかに説得力あるセリフで話題になっています。皆様も是非ご一考ください。
(編集長)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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配信元)

動画概要


 軽快な音楽とともに、お父さんの手作りマンゴーキャンディが出来上がります。
美味しそうなマンゴーキャンディを、長女に手渡すと、お父さんは、いそいそと料理に戻る…。

と、そこに、「見てたんだから!」と言わんばかりに、幼い妹が立ちはだかります。

「私にも、マンゴーキャンディをちょうだい。」

しかし、お父さんは、あっさりと、マンゴーキャンディはひとつしかないと答えるのです。
妹は、決然として「不公平だわ!どうしてお姉ちゃんだけもらって、私にはないの?」と、ごもっともな疑問をぶつけます。

お父さんは何と言い訳するのだろう、と思いきや、意外にも、

「なぜかって? それは、リリィが君とは別の人間だからだよ。他の人と同じ物を持つことなんて、絶対にないんだ。世の中が平等ってことは絶対にない。これからもそんなことは起こらないから、今、それを学んだ方がいいな。」

と思いがけなくシビアな言葉。

「お姉ちゃんはラッキーだった。君はそれほどラッキーじゃなかった。そのうちラッキーなことが起こるさ。」なんて!

しかし、納得いかない妹は、ひるむことなく、誇り高く「それって、ものすごーく不公平よ!」と、お父さんに抗議します。

一体どんな経緯で、お姉ちゃんだけにマンゴーキャンディを作ることになったのでしょう。まのじならば、後ろめたくて、妹の機嫌を取ることばかり考えそうです。

その時、お父さんは腰を落として、彼女の目を見て、こう言います。

「隣の人のお茶碗を覗いて良いのは、その人が充分に足りているかを確認するときだけだ。自分が相手と同じだけ持っているかを見るために覗くんじゃないんだ。」



他の人がラッキーに恵まれ、多くを所有していることに無関心でいられるには、よほど本人が満ち足りていないと、大人でも難しいこと。けれど、そこには、平等を訴える以上の、誇らしさを感じます。


・・・実はこれ、竹下先生のおすすめ動画です。
眼目は恐らく、この、お父さんの言葉でしょうね。
皆さんは、どうご覧になったでしょう(笑)。

さて結局、彼女の「心のお茶碗」は、わずかのチョコ菓子で、充分に満ち足りちゃったようですね!

文・まのじ
セリフ翻訳・緑花

桜散るころに 〜 自宅での介護と看取りの体験(下)

 (下)では、ぴょんぴょん先生の自宅介護も終盤を迎え、看取りの体験を書いていただいています。"続きはここから"以降では、看取る方も看取られる方も『悲しみはなく、喜びしか感じられません』というような最期を迎えるためのヒントが散りばめられていると思います。
 平均寿命という錯覚により、死が遠い未来のことのように思えてきますが、何が起こるか分からないのが人生。いざ臨終を迎えるその時に悔いのない人生だと心の底から思えるためには、"正しい死生観"を築き上げ、正直に生きることが大切になってくるのだと感じます。
(編集長)
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桜散るころに(下)

pixabay[CC0]


母の最期とその時起こった不思議な出来事


亡くなる3日前くらいの夜中のこと、母の声が聞こえるので部屋に行ってみると、誰かとしゃべっているようでした。「誰としゃべっているの?」と聞くと、母は我に返り、覚えていないようでした。もしかして、頭がおかしくなっちゃった? いや受け答えは正常だし、向こうの世界からのお迎えと、打ち合わせしていたのかなと思いました。

そんないろいろな兆候があって、5月30日になりました。お昼に仕事から帰ると、手伝いの人が「今日はおにぎりが食べたいと言うので、作って食べさせました」と言いました。数日まったく食べていなかったので、これは良かった、食欲がもどってきたのかなと思いました。

母はいつものようにテレビを見ていて、私は珍しく血圧を計りました。めったに血圧計を出さないのですが、このときは計った方がいいような気がしたのです。上が40で下は計れません。これはやばいかも、と思いました。病院にいたら昇圧剤でむりやり上げられるのでしょうが、母はもう二度と病院に入るつもりはありませんでした。

「なんか眠いの、とっても眠いの」と言うので、手伝いの人と一緒に母をベッドに寝かせて、やれやれ一休みと思いました。夜のために私も寝ておこうと思い、母のベッドと障子一つ挟んだソファーに横になりました。

とろとろと数分寝たでしょうか、電話で起こされました。関東の妹から、母の様子はどう?という電話でした。「今、寝たところよ」 ちらっと母の様子を見ると、よく寝ているようでした。「行かなくていい?」「まだ、大丈夫だと思う」そんな会話をして電話を切りました。

もう一度確かめようと母のそばにいくと、母はもう息をしていませんでした。まるで眠っているように静かでした。体はまだあたたかくて、手もやわらかくて。

その時、いつもと何かが違うと気づきました。部屋の中が、何かものすごい喜びで満ちているという感じなのです。なんなのかわからぬまま、感動して涙がでるほどでした。20年近く、拷問のような痛みに耐えながら、手足のきかない不自由な体の中に閉じ込められてきた魂が、ようやく開放されて喜んでいるようでした。私は思わず叫びました。「良かったね!もう、痛みもない、自由になったんだよ。今までよくがんばったね。良かったね!」と。悲しみはなく、喜びしか感じられませんでした。


pixabay[CC0]


それからしばらくして、母の大好きだったアルゼンチン人の神父様と、別府駅でばったりお会いしました。「あなたにお会いしたいと思っていました。ちょっと前に、お母さんが私に現れて、微笑みながら、ていねいにお辞儀して消えたのです。お母さんはどうされていますか?」と聞かれたので、亡くなったことを伝えると、うなづいておられました。母がお礼のご挨拶に行ったのでしょう。


つい最近、古い友人も母親を亡くしました。その方は鍼灸師で、東洋医学について鍼灸の立場から、いろいろと教えてもらったことがあります。5年位前にお母さんが脳梗塞で倒れて以来、仕事をほとんどやめて、自宅でつきっきりでお母さんの治療をし、面倒を見ておられました。

大切なお母さんが亡くなられて、さぞがっくりされていることだろうと思いきや、前よりも生き生きとされているのです。
興奮気味に、目を輝かせながら、こんな話をしてくれました。

お母さんが亡くなった時、その部屋が喜びであふれていた、すごかったというのです。「その喜びが自分に力をくれた、もう何も怖いものはない」と、力強く語ってくれました。

その話にうなづきながら、私も自分の母の時の感動を、久しぶりに思い出すことができました。あれは、錯覚じゃなかったんだ、と確信しました。

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桜散るころに 〜 自宅での介護と看取りの体験(上)

 ねじれの医学でお馴染みのぴょんぴょん先生にお母様の自宅介護と看取り体験のエッセイを寄稿していただきました。
 2回に分けて掲載しますが(上)は、2007年の春先に突如始まった自宅介護の様子です。医師であるぴょんぴょん先生であれば、介護もスムーズだったのかと思いきや…。厳しい現実の中で得られた深い学びが書かれています。
 子育て同様に、しっかり向き合うことで得られる学びは尊いものだと思います。その学びが得られるかどうかの分水嶺は、"時間は、もうそれほど長くないのかもしれない"という自覚と共に、本質的なところで日々生き切れるかどうかでしょうか。
(編集長)
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桜散るころに(上)

pixabay[CC0]


生霊となって訴えに来たある祖父のお話


10年くらい前に聞いた話です。
うろ覚えですが、内容はほぼこんな感じでした。

 夜中に目覚めると、誰かが夢枕に立っています。誰なのかはわかりませんが、じーっとこちらを見ています。よく見ると、体にたくさんのヒモがからまって、苦しそうにしています。

 後日、祖父を見舞いに病院に行った時、それが祖父であったことに気づき、呆然としたそうです。たくさんのヒモとは、体につなげられているたくさんの延命チューブでした。

「そういうのを生霊と言うんです」と、教わった記憶があります。

長く生かすためにお金も人手もかけて、良かれと思ってなされていることが、本人には拷問でしかありませんでした。やさしい孫娘なら、この苦しみをわかってくれると思ったのでしょうか。生霊にでもならないと、自由に動けない。こんなふうに人生の最期を過ごしたいとは、誰も思わないでしょう。




突然始まった母の介護


桜が散るころになると、そろそろ母の命日、5月30日が近いなと思い出します。
以前書いたこともあるように、母は20年近く、慢性関節リウマチを患っていました。そんな母と私は二人暮らしをしていました。

2007年3月初め頃から、母は風邪をこじらせたことがきっかけで、自力で回復できない状態になりました。母の希望で入院はさせず、自宅で看ていました。午前中は手伝いの人に来てもらい、それ以外の時間は母の介護に追われて、今になってみると何が大変だったのかも、よく思い出せないくらい、いっぱいいっぱいでした。

4月の初め頃だったか、真夜中に突然、トイレから叫び声が聞こえました。母が便座から立ち上がろうとして立ち上がれず、床にしゃがみこんでしまっていたのです。それまでは自力で歩けたのが、突然足に力が入らなくなってしまいました。どんなに力を振り絞っても、私の腕力では人を立たせることはできません。しかもこんな真夜中、誰も助けてくれる人はいません。

幸いセコムに入っていましたので、セコムを呼び出しました。元気そうな若い男性が玄関に現れたときは、ホッとしました。若い男性にトイレで抱えられるのは、母も恥ずかしかったと思いますが、彼は母をらくらくと立ち上がらせ、ベッドまで連れて行ってくれました。

以降、母は立って歩けなくなりました。昼は椅子に座り、トイレの往復は車いすで、夜は完全におむつの生活に切り替わったのです。


写真AC[CC0]


気力、体力の限界を超える自宅での介護の日々


こうなってしまうと、何かあった時に、私一人では手に負えません。不安な日々でした。

5月の中頃、亡くなる2週間前くらいだったと思います。おむつからあふれるほどの、大量の下痢と悪戦苦闘したのは。それも夜中に限って。排毒だから良しとすべきなのかと思いましたが、その後の洗濯物には参りました。それが1週間くらい、連日続いたように記憶しています。

後から考えると、体を離れる前の準備で、ゴミを捨て去って、きれいにしていたのだと思います。後の話に出てくる友人の母も、そうだったと聞きました。

ある日イライラして、母に八つ当たりしました。「もう、甘えてるからできないのよ。こんなこともできなかったら、施設に入ってもらうしかないんだから」と言うと、母は小さな声で、「甘えてない・・施設には行きたくない」とつぶやきました。

母の気持ちは、私も重々承知の上のことでしたが、先が全く見えないために、こんなひどい言葉が出てしまいました。夜は母に呼ばれる。おむつの交換、外にもれているときは、シーツの交換など、体力の限界を超えていました。

それから数日後、夢を見ました。今もハッキリと思い出せるくらい鮮明な夢でした。私は由布山の見えるカフェで、一人お茶を飲んでいました。「ああ、もう母はいない。一人なんだなあ」と思いながら。目覚めてハッとしました。母との時間は、もうそれほど長くないのかもしれない。

その日の昼に、母にあやまりました。「こないだは、ごめんね。ひどいことを言った」と言うと母は、「私は許すの。何でも許すの」それだけが返ってきたことばでした。

(下)につづく… 

Writer

ぴょんぴょんDr.

白木 るい子(ぴょんぴょん先生)

1955年、大阪生まれ。うお座。
幼少期から学生時代を東京で過ごす。1979年東京女子医大卒業。
1985年、大分県別府市に移住。
1988年、別府市で、はくちょう会クリニックを開業。
以後26年半、主に漢方診療に携わった。
2014年11月末、クリニック閉院。
現在、豊後高田市で、田舎暮らしをエンジョイしている。
体癖7-3。エニアグラム4番(芸術家)

東洋医学セミナー受講者の声

[第4回] 地球の鼓動・野草便り 今、美味しい春の野草5種(2)


今、美味しい春の野草5種(2)


先日、三次の産直市で母がカボチャを買って帰りました。 この時期まで保存を上手にされた、昨年秋に収穫のカボチャです。

調理しようと包丁をあてると、とても大切に保存され、慈しんで育てられていたのがわかりました。カボチャからとてもやさしい幸せな感じが伝わってきて、愛情のこもった育て方に応えるように、カボチャが不思議なくらいみずみずしく元気なのです。
こんなカボチャははじめてでした。どんな方が育てられたのか知りたいと思いました。

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野草を摘む時や調理する時食べる時、もちろん野菜もですが、「ありがとう」「愛しています」などと祈ります。そして全部根こそぎ摘むのではなく、選んで適度に残しながら摘みます。 でも、あのカボチャほどにはやさしくないかもと、カボチャさんにやさしさを教えてもらいました。

では今日の野草をご紹介いたします。
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(1)シャク


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独特の香りがあり、アクがなく、量もたくさんいただける美味しい野草です。
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  1. フライパンに油を少し多めに入れて、ニンニクの醤油漬けと種を除い た鷹の爪を刻んで炒める
  2. 茹でたスパゲティーと適当な大きさに刻んだシャクを(1)に入れて一緒に炒める
  3. 醤油で味付け
  4. 大根おろしをのせる

好みで醤油をかけてもおいしいです。刻み海苔をのせてもあいます。

人参の葉に似た野草にはいろいろありますが、ヤブジラミやヤブニンジンなども食べることが出来ます。

ところが、ケマンソウという似た葉の毒草があります。花が咲けば一目瞭然なのですが、葉の匂いで確認します。 シャクにはセリやミツバなどと同じように独特の匂いがあり、摘んだ時に切り口を嗅いで確かめます。

(左)シャク(中)ヤブジラミ(右)ケマンソウ

(左)シャク(中)ヤブジラミ(右)ケマンソウ



(2)ユキノシタ


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昔から母の田舎でも、ひきつけの薬になるからと、よく天ぷらにしていました。 生の絞り汁は中耳炎で子供が痛がる時に直接耳に入れると、すぐに痛みがおさまり、じきに治るそうです。

また子供の熱冷ましや頭痛にも盃1杯くらいを飲ませます。ウルシかぶれにもいいそうです。「雪の下」の名がついたように、冬でも枯れませんので重宝します。


(3)ヨモギ


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ヨモギはこの時期にできるだけ摘んでおきます。天ぷらにした残りは、乾燥させてお茶にします。今なら生でも美味しいお茶になります。

ヨモギをバジルの代わりに使ったら美味しかったんですよ!と出張野草教室をした友人家族。そして野草教室でお母さんの背中におわれている赤ちゃんが、野生化したニラをガジガジチュッチュしているのを見て、生のニラが美味しいと教えられ、そのお陰で美味しいヨモギとニラのジェノバソース風ができました。

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  1. 生のニラとヨモギを適当な長さに切る(ヤナギタデをたしてピリ辛にすることもあります)。
  2. ①をミキサーに入れ、醤油、油(良質のオリーブオイル、菜種油、白ごま油など)を適量入れる。
  3. 味を見て、必要なら塩を入れる。
  4. パスタやパンなどによく合います。豆腐ステーキや粉ふきいもなどアレンジいろいろですね。

※ニラに似た毒草にスイセンなどがあります。匂いを嗅いで確かめてください。
(左)ニラ(右)スイセン

(左)ニラ(右)スイセン



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ヨモギの青汁をすり鉢で作ることもあります。(他の野草を混ぜてもOK)

この方が少量の時は簡単で成分破壊も少ないと思います。
また、りんごジュースなどを足さなくてそのまま飲んでも大丈夫。
▶︎ 第2回「ヨモギは神様みたいな草」にも別のヨモギ青汁の作り方があります。

青汁のかわりに、芽の先の開いていない部分を食べることができます。(1日10個くらい)

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[第3回] 地球の鼓動・野草便り 今、美味しい春の野草5種(1)


今、美味しい春の野草5種(1)

今回は、太田川の上流、車がめったに通らない山際の道路脇で野草を摘んで来ました。
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春の野草はやわらかで、アクが少なく、種類も豊富です。
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この時期の我が家の畑には、太田カブ菜以外、ほとんど野菜がないので、ハウスで育ったりっぱな野菜を買いますが、これからはもう買わなくてすみます。

では、今日の野草をご紹介していきましょう。
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(1)ノカンゾウ(ヤブカンゾウ)


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ノカンゾウ(ヤブカンゾウ)は今が摘みどきです。フキノトウに続いて、いつの間にか芽が伸びています。大きくなったら、下の方のやわらかい部分だけをいただきます。
花も美味しく、中国では蕾を乾燥させて金針菜という名で売られています。以前は金針菜がノカンゾウの花とは知らずに、珍しいからと買っていました。

漢方薬に使われる甘草とは種類が違いますが、こちらも不眠症や風邪などの薬にもなるようです。田舎ではよく食べられる美味しい野草の一つです。
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  1. ノカンゾウをサッと塩茹でする
  2. 刻んで酢味噌で和える

今日の酢は柿酢・・・秋に熟し柿を瓶で寝かせておくだけで柿酢になります。


(2)ギシギシ


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葉が開いていない芽のところがヌメリがあり、塩ゆでしたものをお浸しや汁の実にします。やわらかい葉も同じようにいただくことができます。
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  1. しっかり塩茹でして水に取る
  2. 温かいうちに醤油で和える

今日のは切っていませんが、適当な長さに切ってください。
今回は葉っぱも入れたのでちょっと硬かったです。いつもはおいしいのですが!


戦後や昔は日常的に食べられていたようです。野菜のない春先にも冬でも元気に生えているギシギシは太田カブ菜とともにありがたい食材です。

スイバ

スイバ



ギシギシに似たスイバは塩ゆですると、トロッとなるのでキビ糖などで甘くすると酸味のきいた美味しいジャムになります。

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