朝敵になっていた長州 〜「尊皇」「勤王」の意味
帝国憲法は主に伊藤博文によって作成され、そこでは天皇について「御一身は神聖にして侵すべからず」とあります。
尊皇攘夷を叫び、勤王の志士として明治維新を成し遂げた伊藤博文たち長州の志士たち、彼らが天皇を「万世一系にしてこの上なく神聖」と規定したのです。
しかし、逆に彼らほど天皇に対する崇敬の念を持たない日本人はいなかったのでは?とも思えます。幕末期、尊皇攘夷を叫び暴れまわる吉田松陰の弟子たちなどの長州勢は京都を席巻していました。しかし逆に孝明天皇に疎まれ、京都を追放された彼らは遂には実力行使の暴力クーデターを起こします。
それはなんと
孝明天皇の長州への拉致等を計画したものからで、これが1864年の「禁門の変(蛤御門の変)」です。京都でのこの戦闘の中で、長州勢は孝明天皇、睦仁親王が住む皇居へ砲弾を撃ち込むという前代未聞の行動を起こしているのです。
結果長州勢は敗退し、孝明天皇から「朝敵」とされ討伐の命がくだされます。孝明天皇の命は当然でしょう。ところが紆余曲折はあったのですが、その
明らかな「朝敵」長州が、明治天皇を前面に押し出して新政府を樹立して運営していくことになったのです。
彼らは担ぎ上げた天皇を「神聖にして侵すべからず」と最大の崇拝姿勢を見せつけ、それを日本全国民に強制させました。
しかしその崇拝の言動は表に見せる部分であって、内心はどうだったのでしょうか?
彼らのもともとの「尊皇」だとか「勤王」だとかは、天皇を拉致して自分たちに都合よく利用しようとすることで、それがうまくいかないとなれば公然と天皇に刃を向いて孝明天皇、睦仁親王の住居に砲弾を打ち込んでいるのです。
天皇を利用しようとしてそれが叶わないとなれば砲弾を撃ち込むこのメンタリティ、これは危険なテロリストもしくはストーカーのそれでしょう。
「朝敵」の烙印が押されたのが1864年、大政奉還が1867年です。「禁門の変」から見るならば、
彼ら長州の勤王の志士にとっての天皇は、担ぎ上げることで都合よく利用できれば「誰だって」「何だって」良かったのではないか? そう思えてしまいます。
尊皇の志士たちにとってまことに都合よく、「孝明天皇は1867年1月崩御」と記録されます。壮健だったはずの満35歳で逝去でした。孝明天皇は最後まで長州に嫌悪を示された様子です。
そして孝明天皇は都合よく崩御されたとはいえ、長州に対する嫌悪は睦仁親王も同様、それ以上の嫌悪感・不信感を持っていた可能性は高いです。幼い時分に受けた精神的な傷は成人になってからのもの以上に大きいですから。伊藤博文たちにとっては睦仁親王もまた邪魔な存在であったのは確かでしょう。
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ということで、今回はちょっとメキシコの政治から外れ、メキシコから見た日本について書いてみました。以前、時事ブログで紹介されたやすとみ歩さんの新橋での演説を見て、popoちゃんは高ぶった!大切な気づきをさせてもらいました。そのことについて書いてみました。大好きなはずの日本に住むとなぜか居心地が悪い。。。なぜ?長年の疑問でした。。。が、やっとわかった!あゆみさんのおかげで。。。
あゆみさんのことは、シャンティ・フーラの時事記事で初めて知りました。竹下先生が「やすとみ氏の肉体は男性ですが、プラズマ体、ライトボディは女性なので、“女物のズボンを履くとぴったり。感じたことのない安心感を抱き、焦燥感が消えた”というのは、自然だと思います。」と書いていました。先生のコメントのおかげで、トランスジェンダーってそういうことなんだと、なるほど!とすんなり理解でき受け入れられました。(このことは、日本中の方、みんなに知っていただきたい!)そして、あゆみさんの演説を聞いて、popoちゃんは虜になってしまった。。。これほど客観的に日本を見れているってすごいなと。。。日本の問題の真髄をついていると思いました。そして、あゆみさんの言葉はハートにズシズシくる。本物だ!是非、いつか政治の舞台で日本を引っ張っていただきたい!8月7日の先生の記事に「安冨氏は、子供に無言の圧力をかけて「良い子」であることを強いるのは虐待だと言っています。」きゃぁ〜!!!popoちゃんも虐待サバイバーだったなんて!!!😱