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ぴょんぴょんの「ストーン オン プーチン」

トランプ、プーチン、習近平、そしてキッシンジャーのそろい踏み。
彼らの働きで悪が駆逐され、世界が良い方向に変わろうとしています。
うらやましいなあ、蚊帳の外の日本はいつ、仲間にはいれるのだろう?
(ぴょんぴょん)
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ぴょんぴょんの「ストーン オン プーチン」


プーチン大統領の言葉


しろ、クイズだ。

えっ?! いきなり、なに?

これは、誰が言った言葉でしょーか?
「実は、世界で何が起きているかを常に注視しているだけで、その背後にあるロジックを理解することは十分可能なんだ。
なぜふつうの人は、何が起きているかがわからなくなるのか。
なぜ外交問題は難しいと思うのか。
なぜ自分たちに隠された事実があると思うのか。
それは彼らが日常生活に埋没しているから
だ。
日々仕事に出かけ、金を稼ぐことに忙しく、国際問題に関心を払わない。
だから世論を操作し、誤った方向に誘導するのはこれほどたやすいのだ。」

誰が? 言ったって?
うーん、うーん、うーん?・・・・・と、日本の政治家じゃあない!

ピンポン! って、人の名前、名前を当てるの!

うーん、うーん、うーん・・・・・。
(ハッ、竹下先生もこういうこと、言われてたような・・・・・)。
わかった! 竹下先生!

ブーーーー!!
先生のはもっとこう、なんつうか、品があって・・・・・ちがう!

ええ?? そおなのお?
じゃ、誰なんだよお!?

おい、キレるな。プーチンだよ、プーチン。
「オリバー・ストーン オン プーチン」の43P、プーチンの言葉だよ。


えええ?! プーチンがこんなこと言ってるの?
たしかに日々の仕事に追われて、時事ブログさえ毎日読めてないし。
テレビのニュースや、電車の中で週刊誌の広告とか見たり。
疑問に感じるヒマもない
し、疑問があってもそれを調べるゆとりもない。
だから、議員とか、公務員とか、専門家にお任せって感じだな。

政府を当てにしてたら、とんでもねえことになってるじゃねえか!
自分で考える時間くらい、作れよ。

わかるよわかる。今の森友・加計問題を見れば、ぼくでもわかる。

先日も「90日後に大変な時を迎える」を勧めたら、読んだ人が目を丸くしてなんて言ったと思う?
「プーチンって悪い人じゃなかったの?!」

ええっ? そっち?!

あのコメントの、「プーチン大統領がサタンとその手下どもを撲滅する意思をはっきりと示していることに、注意して下さい。」ってとこを何度も読み直して、プーチンのイメージが違うってビックリしてた。
そのプーチン大統領、3月18日のロシア大統領選挙で圧倒的得票率で再選されたな。

テレビでは不正選挙とか、ヤンヤン言ってたけどね。

よその国の不正選挙について言及するくらいなら、自国の不正選挙にも目を向けろよ。
って、つっこんでるバヤイじゃねえ。
その前日、3月17日には習近平氏が国家主席に再選された。

うん。ニュースで見た。

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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 第19話 ― 2002年イラク諜報機関レポート

 今から15年前、2003年3月20日、米国がイラクのバグダットにいきなり一方的にミサイルをぶち込み空爆し、衆人注視のもと「イラク戦争」という名前の「イラク人大虐殺」と大略奪を敢行しました。この国家大犯罪は現在も終了していません。イラクの無数の人々が殺害され、癒えない傷を負わされ、町を破壊され生活権を奪われています。イラクの極悪独裁者サダム・フセインが「大量破壊兵器」を所持しているとの虚偽でっち上げの言いがかりによる凶行です。それまでイラクが国連の査察に応じルールを遵守していたにもかかわらず、です。
 侵略者がバグダットを陥落させ最初に行ったこと、それはバグダット宮殿占拠とイラク国立博物館を押さえることでした。彼ら侵略者は、イラク国立博物館を破壊し、納めてあった貴重な歴史文化財を盗み出します。なぜ侵略者が何を差し置いてでも博物館を押さえたのか? 竹下さんは映像配信のどこかで「このイラク侵攻が始まる前にサダム・フセインが「これで、奴等も終わりだ。」と語っており、その意味はイスラエルの元々あった場所はパレスチナではなく、アラビアのアシール地方であったこと、その事実をフセインが掴んでおり、その証拠がイラク国立博物館に残されていたのではないか」とされていました。つまり証拠隠滅のため博物館を破壊し、文化財を運び出したという見立てです。
 これは事実でしょう。サダム・フセインのいう「奴等」とは誰か? 当時イスラムーアラブ世界の一員として、イラクが闘っていたのはイスラエルです。サダム・フセインの指す「奴等」とはイスラエルであり、同時に中東でイスラエルと同盟を組むサウジアラビアとトルコのはずです。そしてその後ろ盾となっている米英です。一口で言えばシオニストです。
 シオニストの主張するイスラエルが、パレスチナを占拠できうる根拠は、旧約聖書の中に出てくる「神がアブラハムを祝福しその子孫にこの地を与えることにした」との一節のみです。常識的には、こんな屁理屈が根拠になり得ないのは明白ではあります。しかしそのシオニストの主張である「約束の地」がパレスチナではなくアシール地方であるなら、シオニストの主張するパレスチナ占拠の根拠さえもが完全に崩壊です。証拠隠滅をシオニストが図るわけです。
 そして実はそれ以外にも、シオニストがその隠蔽を絶対に何としても実行せねばならない事実が、もう一つあると私は見ています。それはイスラエルと中東の地にて同盟を組むサウジアラビアとトルコの正体、とりわけサウジの王族サウード・ワハビ家の正体です。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 第19話 ― 2002年イラク諜報機関レポート

サダム・フセインの諜報機関


米国に騙され、クエートに侵攻し、湾岸戦争で大ダメージを負わされたサダム・フセインのイラク。イラクは湾岸戦争後も次々と経済制裁等を負わされ、国家は疲弊衰退します。一方、建国以来中東戦争に次々と勝利したイスラエルは、中東で我が物顔に振る舞い、中東での同盟国のサウジアラビアとトルコも繁栄。


こういった状況の国家存亡の危機に、サダム・フセインは起死回生の一手を模索、特に米国に騙された苦い経験から、麾下の諜報機関に敵側の弱点発見を厳命したであろうことは想像に難くありません。そしてそれは見つかったようです。サダム・フセインから「これで奴等も終わりだ。」と言葉が漏れた報告が。サウジアラビアとトルコの正体を明かす報告です。

2002年サダム・フセイン政権下でイラク諜報機関がレポートを作成、それを米・国防省が公表したとの情報があります。情報の発信は2011年8月2日に独立史家デイビッド・リビングストン氏によりなされ、その要点の短縮和訳文が同年の8月4日「阿修羅掲示板」に投稿者ABCD氏にて以下のように投稿されています。
サウジ・アラビア王室を中心にしたワハビ派(サラフィス)は反・イスラム勢力である、という。

ワハビ派はイスラム教のサブ・グループとされるが、元は18世紀、英国のエージェントであったアブドル・ワハビが始めたカルトであった。オットーマン帝国時代(19世紀)は弾圧されたが、英国のアシストもあり、1932年、サウジを建国。それ以来、親米であり、イスラム原理主義過激派をそだててきた。アメリカの代理として、ソ連とアフガン戦争をした。

アブドル・ワハビとそのスポンサーであったイブン・サウッドが(隠れ)ユダヤ人であった可能性が出てきた。

トルコのドンメ―・ユダヤの出。ドンメ―・ユダヤは悪名高い偽メシヤ、シャベッタイ・ゼビの信者・その末裔
だ。ゼビは1666年、ユダヤからイスラムに回心(隠れユダヤ)している。

ヨーロッパでは、一世紀後、ゼビの生まれ変わりとされたヤコブ・フランクが主導者となり、このシャベッタィアンの中にロスチャイルドもいた。

ドンメ―はサロニカ市で活発で、これはフリーメーソンのホット・ベットと重なる。後のヤング・トルコ運動。

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ぺりどっと通信3 更なる高みを目指して

前回のぺりどっと通信2には、3つの秘密を仕込んどりました。
果たしてこの隠しメッセージに気が付く方はいるのでしょうか♪
1. 冒頭のコメントが『むかーしむかーし、あるところに…』で始まった理由
2. 記事のどこかに隠しメッセージ
3. ライター紹介での意味深な一言

『えっ?!そんなんあった?』という方はもう一度 ぺりどっと通信2 へどうぞ!

本記事の最後に1と2のヒントだけ載せておきます。3については本編で続きをどうぞ。。。
(ぺりどっと)
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アニョハセヨ!ぺりどっとです。今僕は、韓国ではなく、山口にいます。もちろん旅行に来ているわけではありません。

前回のライター紹介で予告した通りで、皆様うすうすお気づきかと思いますが、実は、ぺりどっとは広島県の大崎上島から引っ越しました。新天地は山口県の山奥です。

ふぐ(こちら山口ではふくという) pixabay[CC0]


どうして山口に引っ越したか?ですって、それはですね…

お金に目が眩んでより寒さの激しい環境下である山口の山奥に身を置き、より自然と一体となって過ごし、インドアキャンパーがどんな寒さにも対応できるということを身をもって証明せんがためなのです。ちなみに今度の新しい家のお家賃は5,000円です。50,000円じゃないです。一年分まとめて支払っても60,000円で、それでも東京の1ヶ月分の平均家賃以下です。

実際の僕のおうちは、こんな感じ♪


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独逸の伯林で見た、聞いた、感じた難民問題、移民問題 ~第8楽章 アフリカ人は心やさしい人たち

第7楽章のトルコの外国人労働者も2世代目、3世代目
引き続いて、

第8楽章のアフリカ人は心やさしい人たちをお送りいたします。

アフリカは、昔、緑豊かな国だったのに・・。
そして、文化が発達した国だったのに・・。
(ユリシス)
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アフリカの文化


和辻哲郎さんの
アフリカの文化という本
がある。

 最も小さい子供から最も年長の老人に至るまで、その身ぶり、動作、礼儀などに、自明のこととして明白な差別や品位や優美などを現わしていた。王侯や富者の家族においても、従者や奴隷の家族においても、その点は同じであった。
 フロベニウスはそこに教養の均斉を見いだした。上下がこれほどそろって教養を持っているということは、北方の文明人の国にはどこにもない。
 が、この最後の「幸福の島」もまもなくヨーロッパ文明の洪水に浸された。そうして平和な美しさは洗い去られてしまった。

pixabay[CC0]


我が家の息子は、スポーツ好きなので
オーストラリア時代もここ、ドイツでも
アフリカ出身の生徒とサッカー関連で
友達になることが多かった
のです。

息子曰く、
アフリカ出身の子は、優しい
よ・・・

例えば、自分が、ジュースを買えば、
息子の分も一緒に買ってくれるとか・・

遊びに行くのを誘うと
誘ってもらったことに対して、お返しをしてくれる
とか・・。

息子の友達は、マリ共和国出身。

マリ共和国のオンボリ山 Author:TimmGuenther[CC BY-SA]


あるとき、病院の待合室で
アフリカ系のお父さんと子供が座っていました。
なんと静かに座って待っているのでしょう
・・。

アフリカの方は、とても紳士的で
物静かで、親切である・・という印象
があります。

コシシケレリ・アフリカという、アフリカ全土で
歌われている賛美歌
がある。同時に国歌でもある。

神よ、アフリカに祝福を(かみよアフリカにしゅくふくを、コサ語: Nkosi sikelel' iAfrika コシシケレリ・アフリカ)は、アフリカ各国(特にサハラ以南)で歌われている賛美歌。現在の南アフリカ出身のエノック・マンカイ・ソントンガによって、1897年に作詞・作曲された。この曲はパン・アフリカ主義に基づく解放運動を象徴する歌(アンセム)となり、のちに独立を達成した国家のうち数か国で国歌として採用された。2015年現在、タンザニアと南アフリカ共和国が国歌として使用しており、またザンビアの国歌はこの曲の旋律に異なる詞を乗せて別タイトルを付している。
Wikimediaより

とても荘厳で素敵な曲なのですが、
いかがでしょうか・・・。



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かんなままの「ぴ・よ・こ・とライフ」(49)育児の知恵

かんなままさんの執筆記事第49弾です。 
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かんなままの「ぴ・よ・こ・とライフ」(49)育児の知恵

自立した人間というのはどういう人間だろうか。

それは、自分の事は自分で決めることが出来る、そして決めたことで成功または失敗しても、その結果についての責任を取ることが出来る、そういう人間です。

自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の足で歩けるように、子どもを導かないといけません。

そうでないと、誰が生きているのかわからなくなってしまいます

出典:「ぴ・よ・こ・と」竹下雅敏(著)


子どもの頃からの思いを叶えた娘


橋の工事が始まるまで、ポッサム個体の遺伝子を調べて基本データを作らなければいけません。ライフル銃の免許をとり、夜中にブッシュを駆け巡ってどんな遺伝子を持った種がどこに住んでいるのか?麻酔銃で眠らせて遺伝子を調べます。私は後で連れて行ってもらったのですが、ライフルとヘッドライトだけで真夜中のブッシュを1人で駆け回っていたのを知ってびっくりしました。本人は「人間の方が怖いよー」と笑っていましたが。

pixabay[CC0]


ところが、あと2ヶ月でレポートを出せるという時になって大事件が起きました。思いもかけなかった実験の不備が見つかったのです。今までの膨大な研究が全て無効になってしまいました。ショックです。

さすがに電話をかけてきました。気落ちした娘の声。これまでずっと頑張ってきただけに立ち直る気力を失くしていました。私は娘の気持ちが痛いほどわかりましたが「今までの研究は決して無駄じゃない。頑張っていたあなたを誇りに思うよ。でも、人間はピンチの時にどう立ち上がるかが一番大事なのよ。学ぶのは今。ピンチはチャンス!」と励ましました。ずっと後になって「あの時の言葉に救われた」と言ってくれました。

最終的に橋がかかるのに3年かかりました。この橋を渡って交配していることもわかりました。同時進行でフィールドトリップをして大学生たちに指導をしたり、傷ついた野生動物保護のボランティアもしていたようです。

日本に里帰りをしていた時に郊外のレストランで野鳥がガラス窓に激突して失神したことがありました。娘はすぐに駆け寄り、骨折していないか?呼吸はどうか等を入念にチェックして、お店から小さなダンボールを借りて布を敷き、温かく、しずかに保護していたら元気になって飛んでいったことがありました。その手際の良さに驚いたら、いつもしていることだと笑っていました。その時「私は動物を助ける仕事をする!」と言っていた幼い頃の姿が重なって「ああ、この子は自分の力で子どもの頃からの思いを叶えたんだ」と実感しました。

pixabay[CC0]


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